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【父・浜渦章盛の記憶その1】大スターバリトン「レナート・カペッキ・劇団」の奇跡

音楽と人生

私の父、浜渦章盛が65歳で亡くなってからもう15年。
ここらで少しずつ、彼のこと、彼が話してくれたことを残しておこうかと思います。

面白いと感じる人もいれば、もしかすると苦々しく思い出す方はいらっしゃるかも知れません。
私も、父に対する複雑な思いはずっとあります。

家族が、家族の話をすると、陳腐な感じがしてしまうかも知れませんし、とりとめもない夢の話を他人に話すような空々しさもあるかも知れませんが、それでも父は、とんでもない人で、数々の伝説を残しましたので、やはり書いておこうと思ったのです。

表向きは(?)声楽家でしたが、幼少期から苦労を重ね、中学時代からクラブでピアノを弾いて食い繋ぎ、高校番長時代は不良少年たちや柔道部員を集めて合唱部を作る。
彼が留学から帰国後創設し、現在も活動を続けるローゼンビート少年少女合唱団にある日、番長グループが一斉入団……TVやラジオの司会やパーソナリティ……魔笛のリハーサルで起こった、朝比奈隆先生と〇〇〇をした伝説。
枚挙にいとまがありません。

その中から一番ライトなものを。
でも私が大好きな話を。

これからお話しする世界的バリトンの話は、彼の生き方に影響したのでないかと思うので、取り上げてみたいと思います。

世界的スター・バリトン歌手がドサ回り

かつてレナート・カペッキという、スカラ座やメトロポリタン歌劇場をはじめ、世界中で活躍したトップバリトンがいました。
バスのような深い響きを持ちつつ、高音まで迷わず伸び、ドラマチックな役からコミカルな役まで幅広くこなす、私も大好きな歌手の一人でした。

その彼が、自分の小劇団を率いてトラックでドサ回りをしていて、その姿をミュンヘンで見たという話を、いつだったか、父から聞いたのです。

実際カペッキは、父が留学していた1970年前後に、「オペラの民主化」と「若手育成」のために、イタリアやヨーロッパ各地でこうした移動公演や野外・仮設舞台での上演を熱心に行っていたそうです。

そこで起こった大スターと父との出会い、そして起こった奇跡について、書き進めたいと思います。

※父から伝え聞いた話であり、また私の記憶や情報も間違っているところがあるかもしれません。その点ご容赦ください。

出会いは仮設舞台の設営現場

ドイツ・ミュンヘン音楽院に留学していた父(といっても裕福でもなんでもなく、貧乏のどん底から這い上がったエピソードについてはまたいつか)。
どこかの広場に「レナート・カペッキ劇団?なるものがやってくる」との噂を聞きつけ、その現場に向かったそうです。

トラックで乗り付けて、団員たちは舞台を設営。
演目はレオンカヴァッロの『道化師(I Pagliacci)』。

どこにそのカペッキがいるのか?本当に来るのか?
そう思いながら、椅子を並べている一人の団員に声をかけました。
肩にタオルをかけ、汗だくでシャツ一枚、黙々と椅子を並べているおじさんです。

「レナート・カペッキが来るって本当かい?」

するとおじさんはにっこり笑って答えました。

「俺がそのカペッキさ」

大スターがトラックに乗り、ドサ回りをする……そして自ら率先して舞台の設営をしている。
驚きと感激が一度にやってきたそうです。

『道化師』は、移動芝居小屋を設営して各地を巡業する一座の物語です。
カペッキは現実でも、これとまったく同じことを行っていたのです。

そして公演が始まります。
彼の役はもちろん、トニオ。

起こった奇跡

彼が演じたトニオは物語の冒頭、幕前で「前口上」を述べます。
観客に「これから始まるのは作り話ではなく、人間の真実の姿だ」と歌で語りかける大切な役です。

世界的な大スターでありながら、自ら汗を流して舞台を設営する彼の姿勢は、まさにこの「職人芸としての演劇」を体現していたのでしょう。

しかし彼は、多くの公演だけでなく、移動や設営の疲れでもう誰の目にもガタガタだったそうです。
そんな中で、前口上「ごめんください、皆様方(Si può?)」を歌うカペッキ。

これはバリトンとしては大変な大アリアです。
しかしこのままでは、最終盤の…

al pari di voi spiriamo l’aere!

(私たちも、あなた方同様、息を吸っているのです)

の「voi」で出てくる最高音のAs(変イ音)は出ない……そう思った時でした。
客席のお客さんたちが一緒に歌い出したそうです。

♪al pari di voi(最高音As)〜!! と。

こんなことがあるでしょうか。
もしかしたら、多少の脚色や、私の記憶の補正もあるのかもしれません。

結論から言うと、当時のミュンヘンでは大いにありえたようです。
当時、そうした仮設劇場やゲリラ的公演には、一般人はもちろん、筋金入りのオペラファンや音楽学生も多く集まっていたそうです。
あくまで舞台を盛り上げよう、応援しようという姿勢で。

汗を流して椅子を並べ、トンカチを持って舞台を作るクタクタの大スター。
こんなカッコイイおっさんがいるでしょうか?
彼の活動を知っているからこそ、客席から歌うことは決して失礼などではなく、まさに彼が目指した「オペラの大衆化」が実現した瞬間ではなかったでしょうか。

カペッキが父の帰国後の活動に与えた影響

カペッキは1970年代前半、大劇場の商業主義から離れ、数人の若い歌手と最小限の機材だけで旅をする、通称「ポケット・オペラ(小劇団)」のような自主企画を熱心に立ち上げていました。

イタリア国内の小さな村々から、国境を越えてドイツやオーストリアの地方都市まで、文字通りトラックに仮設舞台を積み込んでゲリラ的・精力的に巡演。

彼にとってこれは、「劇場の特権階級化を否定し、オペラを大衆の手に取り戻す運動」であり、自身のライフワークであったそうです。

大掛かりな舞台装置も装飾もなく、アンサンブルも最低限。
そういう少人数オペラやオペレッタは、この当時たくさん存在していたそうです。

父自身もバス・バリトン歌手で、ヘルマン・ロイターのピアノでリサイタルをしたり、カール・リヒターやエルンスト・ヘフリガーの指導も受けたそうです。
帰国後も数々のタイトルロールや主役を歌い、朝比奈隆先生の指揮で『魔笛』のパパゲーノでも伝説を残しています(リハーサルで起こった伝説については、またの機会に)。

そして、声楽家でありながら関西でラジオやテレビのレギュラーをもち、毎日のようにメディアに出ていました。
しかし、ある時を境にそれらからほとんど手を引いてしまいます。

私財を投げ打って、自分のオペラ小劇団を立ち上げたのです。
自分の教え子が、チケットノルマに苦しまずに舞台に立てるように。
「そこに行けばオペラがある」という大衆化を目指して。

わかりやすい楽曲、台本、演出、セリフ、その全てを自分でやっていました。
そのレベルは、決して高いとは言えなかったかもしれません。
しかし、その姿を思い出す時、かつて父から聞いたレナート・カペッキ劇団をはじめとしたミュンヘンでの多くの出会いや経験が生きていたと感じずにはいられません。

留学中、ベトナム人の留学生と仲良くなったそうです。
ベトナム戦争の戦火が激しくなる中、かの国からやってきた彼は、家系を守るため「兄弟で一人だけでも……」との思いで、彼の地から祈りをこめて送り出されたそうです。

そしてある日、彼は「全員死んだ……」と静かに語ったそうです。
家族と多くの兄弟たちは亡くなってしまったのです。

以来、彼の姿を見かけることはなくなりました。

父の作品に反戦やヒューマニズム精神が多く取り入れられたのは、そうした出会いや、自身も満州から奇跡的に帰還できたこと、幼くして両親と離れ転々としたこと、食べるために中学時代からクラブでピアノを弾いて生きてきたことなどが大いに影響していたのでしょう。


…とまあ、かなり綺麗事のように書いておりますが、そんな父だからこそ、私が抱いた、幼少期〜青年期の複雑な思いもあります。

多くの方にも愛されてもいましたが、その分、迷惑もかけていたのではないか?
と、思います。
だから書こうかと迷うわけです。

その辺りも、まあ、誰も興味はないとは思いますが、私がボイストレーナーになった理由にも繋がるので、そのうち書いてみたいと思います。

若い頃の父・亡くなる前の父の写真

おそろしいですねえ。。。

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