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踊るとは、踊るのではなく、踊り出すこと

ダイアリー

踊るとは、踊るのではなく、踊り出すこと

5月25日の朝。
雨の中、カール・リヒターの指揮を見ていて、

ふと「踊る」ことについて考えが浮かんできた。

「踊る」とは、踊ろうとして踊ることではない。
踊り出す、ということだ。
その瞬間が来るのを待ち、身体が勝手に動き出す状態。
それが本当の“踊る”なのかもしれない。

そのためには、「体という畑」と「上の空の体=想像」とがつながっている必要がある。
この想像が、一本の線になる。
そして私たちは、その線をたどるように踊り出すのだ。


「上の空」は悪くない

上の空とは何か。
それは、目・表情・心・体が軽い状態のこと。
無防備でいて、開かれていて、ふわっとどこかに浮かぶような…。
そんな上の空でいられたとき、体は自然に動き出す。

まさに俯瞰とはこのことだろう。

今日はプレトニョフの映像からヒントをもらった。
昨日はアート・ガーファンクル。
どちらも、身体の“外側の空間”に、そっと手を差し出し、或いは歌っていた。

歌もピアノも「自分がやるもの」ではない。
外側の何かに触れるように、そこに耳を澄ませ、身体が自然に反応すること。

“弾く”のではなく、“聴くように触れる”。
エア・ピアノのように、音が出ることさえ意識しないまま。

思わず頷き「なるほど」と呟く時、
くしゃみが出そうで「ハーハー…」なんていってる時、
皆、自然な踊りの第一歩なのかもしれない。


強くするために強く振るのではない

たとえば指揮をするとき、
強くしたいからといって腕を力強く振っても、音楽は強くならない。
それは「知識」でやってしまっている証拠だ。

まず、自由に動ける身体になること。
そこから、楽譜の言うことに耳を傾ける。
そうすれば、自然に音楽が現れてくる。

そこに技術を超えた、「根拠なき自信」が生まれる。
それは生きる実感を味わう、喜びの瞬間。


自由を取り戻すことが、学びの本質

私はかつて、「自由に動くこと」を否定されてきた。
決められた型や、正しさだけを求められて。
それで本当の表現が得られるはずがなかった。

でも今は思う。
指揮も、歌も、踊りも、演技もーー
すべては、自由を取り戻すことなんだと。

上手くなることは、自由になっていくこと。
そして、その自由は、想像の線につながっている。

だから私は今日も、目をそらさずにいたい。
原因に目を瞑らずに、
本当に「動き出す」瞬間を、大切にしたい。

それは私にとっては難しいことだけれど、
追い求め続けたい。

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