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自由に歌う喜びと上手く歌うことの差「ボイストレーナーとして皆さんにお伝えしたいこと」

表現者 心と体を楽に

ボイストレーナーの浜渦です。私が目指すボイトレは、皆さんが自分の体を「操り人形の使い手」のように自由に自在に操りそこから紡ぎ出される自分の声を客観的に聞くことで、より良いものを自分の力で育てて行く喜びを知っていただくこと。そしてそれを歌や話すことだけではなく、皆さんの人生全体にプラスにしていっていただくこと。これは才能は関係ありません。そしてそこには上手い下手とか高い声が出る出ないという世界もありません。しかし、その世界を知った人は必ず音域も伸びるし、上手くもなるという不思議もあります。それはおそらく第一線長く活躍しつづけている、ボーカリスト・声楽家・俳優たちの殆どが経験し、維持し続けていることです。彼らは才能だけに頼ることなく、自分を操る、自分が自由になるための努力をしているのです。それが私の目指すもの。あとは徒然なるままに書きます…。こんなのnoteに書けって感じすが…おヒマで仕方がない夜にでも…。

自由に歌うことと上手く歌うこと

私は誰かと比べて、また昨日の自分と比べてうまく歌えないのは辛くない。立派な声も欲しくはない。そんなものはとうの昔に捨てた。これは楽になる第一歩でもあり、苦しみの第一歩でもあった。

とにかく自由に歌えているときは天にも昇る気持ちだ。自由な世界にはうまいも下手もない。しかし自由さを失うとこれほど苦しいものはないのだ。

自由がないと、うまさや立派な声や音域にという人と相対的に比べられるものに走ってしまう。そこに自由はないが、アイツより高い声が出るという、優越感に浸れる。また自分は高い声が出ないという劣等感にも。しかし、自由自在という表現の根本を排した高い声にいか程の価値があろうか。

私はある時、自由ではない世界での優越感も劣等感も捨てた。しかしそこには本当の苦しみもある。体と心を思うままに操り、自由に歌えるときは良いが、それができないときは、地獄の苦しみだ。良い声と言われようが、カラオケの点数が良かろうがそれはもう夜0ロコ日ではない。だとするとただ苦しみだけが残る。

自由の喜びと、自由ではない苦しみ

自分が自由と感じられないときの苦しみ。

  • 自由である=天国
  • 自由でうまい=これまた天国
  • 自由ではない=地獄
  • 自由ではなくうまさで誤魔化そうとするとする=もっと地獄

という具合なのだ。自由のないうまさというのは、自分を捨てて上司に取り入るようなもの。音楽を愛するというより、媚びへつらう行為に堕してしまいかねない。

自由であるための努力は「他人の体のように操る努力」「音楽に愛される努力」

自由であるための努力は、音楽に愛される努力でもある…と私は思う。自由自在であることは、うまいということではない。下手だろうが、裏返ろうが、調子がはずれようが、自分の体全部をを、まるで操り人形のように、それも生きた操り人形のように、自分ではない第三者(それが精神なのかもしれない)が自由に動かすことだ。そのためには、常日頃から、自分の体を観察し、自由に動かすための準備をしなければならない。ただ練習するのでも、正しいとされる発声を頭の中でやるのではなく、体を自由にすることによって、動き出すのを待つのである。体が動き出したとき、なぜ、正しい発声法や呼吸法が正しいとされているのかが初めて分かる。ということは、無理やり体を動かしたり、頭で理解した正しい発声法では、多少うまくなっても、高い声が出ても、自由には決してなれない。自由のない正しさなど、マスターベーションに過ぎないのだ。

自分を客観的に見て聞いて褒める喜び

体のことを知るのは精神だ。その結果が呼吸である。声は今現在の精神と体の結果でもある。正しさではない。体のを自由に、精神を自由に、バランスよく使えたとき、自分自身をまるで他人のように、見えるようになり、扱えるようになる。だから本当に上手い人は、まるで声を出していないかのような、あたかもそこから自動的に紡ぎ出されているように見えるのだ。演技も書も、絵も。そういう状態を神がかっているというのだと思う。それはとても気持ち良い時間であり、優越感に浸れる。

…?それはマスターベーションではないのか?これが違うのだ。自由な声が紡ぎ出される自分の体を操っている、別の自分を褒めているのだから。客観的に聞いて見て、素晴らしいと思う。それがたまたま自分であったというだけ。

これが私が皆さんにお伝えしたいことであり、今の日本に決定的に足りないものだと思っている。それをカラオケの点数の高さで誤魔化したり、点数が低いのを自分の体を操る努力をしないで嘆いたりしている。自分を操れれば、点数なんかどうでもいいやと思える。そして高い声が出なくても気にならなくなる。。。しかし、その時本当にうまくなるし、高い声もでるようになるのだ。なぜなら、先述の通り、なぜ正しい発声法や呼吸法が正しいとされているのかが身をもって証明できるからである。

ただ上手いことと自由から生まれる「本物=オリジナル性」の違い

しかしそういう体を極限まで、他人のように扱える人は本当に減ってきた。かわりにうまくて高い声を自分事として出せる人は増えたのである。それが良いことか悪いことかは分からない。しかし、その歌やセリフは、どんなに声色を変えても、オリジナル性は出ない。なぜなら、体の一部だけを学問的に科学的に使ったところで、オリジナル性が出るわけがないのだ。全部使えば、オリジナル性など、キャラクターなど、出したくなくても出てしまう。にじみ出てしまうのだ。周りにそういう人はいなくなりつつある。いても精神論で見て盗め聞いて盗めのような人が多い。しかしうまくなくてもいいから本物になりたいという人は多いはずだ。僕のところにはそういう人が大勢集まってきている。

本物を精神論でも机上の論理でもなく、自分の身をもってわかりやすく解説し、またどういうときに人はそういう動きになるのか、たくさんの例を実践して、あくまでヒントは人生と生活の中にあることを感じ取ってもらう。これは本当に大変なことなのです。

正しい発声法や呼吸法の解説やただの発声練習や、上手く聞こえるコツとか共鳴やなんちゃってのミックスボイスを教えるのなんて、これに比べるとその苦労は1/100です。

しかし、私はその道を選んでしまった。僕は偽物のうまさが蔓延るより、本物の、三流でも本物の自分を自由に扱う人が増えることを願ってしまったから。なぜなら、自分を自由に扱える人は、自分も他人も客観的に見ることができるひとだから。そういう人が、うわべではない愛や平和を、その価値観がが違っても考え合うことができると思うから。

カッコつけんな!って思われるかもしれないけれど、いや、僕もこんな面倒なの嫌なんです。しんどいから。なんちゃってのボイトレをオシャレに、オシャレなスタジオでやって、いろんなコネを使って…それで満足できたらどれだけ楽だったことかと。

最後に「自由であるための正しい努力を」

自由であろう。そのための正しい努力をしよう。根性論でも精神論でもない、うわべでも頭の中だけの論理でもない努力を。自分が客観的に見る自分を含めたすべてのために。

これを精神論でなく、あらゆる手立てで伝えているボイストレーナーや声楽家は殆いないでしょう。厳しいことを言えば、自分ができないか、伝えるのが難しいから精神論的になってしまうのどちらかです。そもそも自由であるための努力とは何かを知り、実践できている人は、教えるより、自分が歌ったり、踊ったり、書いたり、描いたりすることで手一杯なんですよ。

これは…人生を器用に立ち回れず、お金も権力もない、弱い一人間の言い訳なのかと思ったり\(^o^)/

ある日曜日の深夜、自宅屋上にて。書くことで心の安定というちっぽけな満足感を得ながら…。

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