オンライン・レッスン◆ただいま入会金無料◆

【リズム感の正体】ずっこける演技、気づく演技ができる人は歌が上手い!?【日本人は注意】

上達のアドバイス
HIRO
HIRO

歌唱力=演技力!

私がことあるごとに発言していることです。もっと言えば、演技力≒リズム感≒演技力≒トーク力≒アドリブ力≒歌唱力…一応ニアリーイコールにしておきますが、これは紛れもない事実です。なぜなら、これらは全て同じ能力を必要とするからです。(今日は簡単ににいきますので、詳しくはレッスンで私がそれを身をもって証明して見せますのでぜひ♪)

演技力と歌唱力の関係、相手の心に伝わる自然な演技と歌、伝わらない不自然な演技と歌の差について簡単に解説します。

HIRO
HIRO

そこのあなた、体のリズム・エンジンかけずに、いきなり発声して歌って、上達の実感もないまま疲れてませんか?ならばぜひお読みください♪

「わざとらしい歌」ってなんだ?

なにをもって歌が上手い、歌唱力あるというかは人それぞれですが、ここではカラオケの点数的なものよりではなく、相手に伝わるもの、自然であることを前提としています。自然とは何かも難しい場合が、その逆の不自然・わざとらしいのはダメだと考えると良いでしょう。

演技力=歌唱力ですから、演技がわざとらしい人は、大抵歌もどこか不自然というか、わざとらしくなりがちです。演技の方がよりそのわざとらしさがバレやすいですが。

さて、「歌でわざとらしいってどういうことだ?」と言いますと、上手く歌おうとしているのが見える、発声や呼吸法をちゃんとしようとしているのが見える、ビブラートやフォールなどのテクニックを使おうとしているのが見えるなどもわざとらしいと言えるでしょう。

しかしなぜそれが「わざとらしく見えるのか、見抜かれるのか?」と言いますと、それらのテクニックや方法論が良い悪いのではなく、そういう一般的に必要とされていることよりも、もっともっと大切なものをがあることを忘れているか、それが何かに気づいていないだけです。

「何かに気づく演技」でバレるもの

何かに気づく演技などをしてもらうと簡単にバレるものがあります。それが体内のリズム感の有る・無しです。よく言われる音楽の難しいリズムを取れるとかではない、もっと根本的なリズム感の欠如です。リズム感が何かわかっていない人は、気づくまで動かず、気づいた時に動く。すると実にわざとらしくなります。

実は逆なんです。

ずっと体の中の一定のリズムに則って行動し(たとえ動かない演技の時も、あくまで大きなリズムの中での溜めに過ぎない)、気づいた時にそれが一瞬止まることによって「気づいた瞬間」を表現できるのです。

わざとらしくなるひとは、リズムが無いのがバレるんですね。

ここで大切なのは私はリズム感の良い・悪いではなく、有る・無しと言っていることです。センスも同じです。センスが悪いのは構わない。無いのは困るんですね。

…ということは、リズム感の良い悪い以前に、そもそも自分の体の中に強弱のリズムを作ることができているかということが大前提というか基礎の基礎となりますが、多くの人がこの基礎を知らないまま、身につけないまま、次の難しいテクニックや発声練習をやってしまうため、練習しても練習してもどこか不自然で、上手くなっているはずなのに、どこかわざとらしさが残って伝わりきらなかったり、ちょっとしらけてしまったりするんです。

日本人はリズム感が悪いのでなく「無い人」が多い!?その理由は?

日本人は…なんて書くとまた主語がでかいと言われそうですが、実際日本人はリズム感が「無い」人か多いと感じます。悪いのではなく、無いリズムとは体の中の呼吸圧の強弱の自然な繰り返しのことであり、それが全ての行動や想像力の源となります。体内のリズムをコントロールできるとリズム感が育ち、それが演技力、声の強弱、音色の豊かさ、スピード感、抑揚、ひらめきなどに繋がります。

HIRO
HIRO

…ということは、本来楽譜に書いてある「f」「p」「<>」などの

全ての記号や速度表記はリズム感をもとに行うものであり、頭でただ機械的にやってはいけないということになります。

ところが、かなり多くの人が、リズム感を無視して強弱や抑揚を機械的に、それをやれば気持ちを込めたとか、音楽をやったような気分になってしまったり、それが上手くなる練習と勘違いしてしまうのです。

自然界の動物は本来リズム感を持っている

しかし自然界の動物は基本的にこういうリズム感は本能的に持っているはずです。、例えば猫が歩くときに、その音もない歩みの中に、踏ん張りと踏ん張ったまま次の足をそっと出し、またその足が踏ん張ると次の足を…という重心と圧の強弱が自然とあります。我々も幼い頃はあったはずなんですが、人間界で難しいことをやって、周りに合わせ、自分を犠牲にしているうちに、どこかで置いてきてしまう人が多いんですね。

右足で踏ん張っている間に左足を楽に前へ出して、そして左足が踏ん張っている間に右足を…とやるとリズミカルに歩けるはずですが、体幹がなかったり、体が硬かったり、息が据えていないために息の圧力を作れないでいると、とぼとぼ歩いたり、ドカドカ歩いたり、全ての行動がうるさかったりだらだらしていたり…こういう人は、歌う前に、発声や呼吸法の前にやることがあるわけです。

リズム感が悪いのはOK、無いのはダメ

リズム感があっても辿々していたり、遅れたりするとリズム感が悪いということになりますが、一方で無いというのはそもそも音楽も表現も停止しているんです。声は出ていても音は鳴っていても停止している…これはまずいです。楽譜上の難しいリズムが取れることとここでいうリズム感は全く別のことです。

リズム感がないのに難しいリズムを正確に取れるとか、音程がバッチリ取れる、良い声などは、表現ではあってはならないことです。

しかし、ただひたすら正確性だけを求める人、目指す人はなぜか多いんです。そして、そういう人が音楽の授業でもあらゆる現場でも褒められてきました。つまり個性はないけど、ただ合ってますというやつです。

自分の体内リズム感がない弊害

自分のリズム感がないといろんな弊害があります。想像しているつもりが悩んだり、思っているだけになってしまうし、全ての行動がわざとらしくなります。

呼吸の圧縮がないので、本来自然に入って自然に出ていく呼吸が、一生懸命吸って、一生懸命吐かないとできなくなります。そうなると腹式呼吸なんて何の役にも立ちません。むしろ腹式にこだわった結果、リズムを失う人も多いのですよ。そんな呼吸で歌うと、息が続かなかったり、高い声が出なかったり、すぐ喉が痛くなったりするのは当たり前のことなんです。

そこに感性など生まれるはずもないのですが、それなのに「もっと気持ちを込めて」などと命令され、気持ちを込めた「フリ」をしてきた人も多いのではないでしょうか?いや「気持ちを込めるフリ」を、気持ちを込めることだと勘違いしてきた…。

リズム感の正体がわかれば「何を・なぜ・どのように」がわかる

逆に体内のリズム感の正体が見えてくれば、本当は何をすべきで、今自分はこれくらいできていて、これがこのくらい足りない、というのが正確にわかってきます。こうなればもう大丈夫。「自分は出来ない」という人の多くは、実は何がどうできていなくて、何ができているかがわかっていません。分かれば悩むことはないのです。

HIRO
HIRO

リズム感の正体がわかれば「何を・なぜ・どのように」がわかります。私がレッスンで最も力を入れるポイントです。つまり生徒さんが自分で上手くなる力をつけることです。

もちろん、体内のリズム感は、正しい発声法などを学んでも身につきません。むしろリズム感を無視した発声法や呼吸法は、それが論理的で正しくても成長を阻害する可能性の方が高いのです。表現はそんなつまらないものではないですよ!

しかし、体内のリズム感が普段の生活に滲み出てくるほどできてくると、もう発声や呼吸のことなど考えなくても、勝手に、自然に、自動的にできるようになります。それが本当に上手い人の正体です。

才能は関係ない!ではなぜリズム感が無い人が多い?

なぜこんなにもリズム感がない人が多いのでしょう?自然界の動物たちは皆持っているのに。もともと民族としてないのか?そんなことはないのです。

いやボロクソ言っていますが、私もその筆頭だったのですよ。今はそんなことありません。つまり才能とか持って生まれた能力は関係なく、後からどんどん作れるということです。

HIRO
HIRO

つまり後天的に演技力や歌唱力という才能育てられ、引き出せるんです。そのためにワタシャ毎日大汗かいて全身全霊でレッスンしております♪生徒さんに「なるほど!!!」「そういうことか!!」と納得してもらうために♪

すごく良い声で高い声も出るのに不自然、すごく指が動くし難しい曲を弾けるのにちっとも面白く無いピアニスト…じゃつまらないですよね。

でもリズム感を身につければ、下手でも面白いピアノが弾けるようになるし、囁き声でも相手を感動させられるようになるんです。何度も言いますが、今はリズム感がなくても、身につけられます。そしたら世界が変わりますよ!こんなに楽しかったのかと。

個性を捨てて周りに合わせ続けた結果…

話を戻しまして…何故リズム感が無い人が増殖してしまったのか?

まず、自分のリズム感とは、自分の体の重心や圧力を自然に変化させて行動することそのものです。それが個性というやつです。もちろん人によってそのスピードや感じ方は違います。ゆったり動くと自分らしく生きられる人、細かく動くとしっくりくる人。ひとそれぞれです。

しかし日本人は自分のリズム感を捨てて「せーの」とか世間のスピードに無理やり合わせて生きてきた人が圧倒的に多いからだと思うのです。

音楽においては、みんな一緒に、正しく、楽譜のリズムと音程に無理やり合わさせた結果、自由に自分の体内のリズムを一番にやることを捨て、自分のリズムを失うという、音楽の意義を根底からこわすような音楽の授業を蔓延させてきた結果とも言えると思います。

歌の採点項目が、音程が正しい、歌詞があってる、リズムが合ってる、元気だ、綺麗な声…いやいやいやいや、そんなのはずーっと後の話ですよ。もっとやるべきことがあるでしょう!

HIRO
HIRO

自分のリズムがアイデア・閃き・想像を生み出すのに、それを捨てて、電車に間に合う、学校に間に合う、会議に間に合う、つまりみんなと歩幅を合わせる。それは協調性でもなんでもなく、ただ自分を捨てた人間の集まりになりはしないか…。

だから僕は生徒さんにリズム感の正体をきちんと掴めるようにお渡ししてるんです。だってそれだけでほとんどの問題(呼吸法・発声法・音域・表現・個性他)は解決するんですから。それが唯一無二の浜渦メソッドなんです。自分で言うても信じてもらえへんて?まあ。いいのさ。昔は僕も普通のボイトレやって、論理的ボイトレやって、何周も回ってやっと辿り着いていますから。

リズム感どう鍛える?体内の基本リズムはエンジンのアイドリンングと同じ

さてリズム感、どう鍛える?

リズム感を鍛えるのに最も良いのがインプロ(即興劇)やアドリブで鼻歌でもなんでも自由に歌い続けることでしょう。

しかし、多くのインプロを見てきましたが、やはり即興で動く時だけ動いていて、普段のリズムがまるで無い人が多いんです。これは歌でも全く同じこと。歌うことが動くことでなく、前提のリズム感が無いとわざとらしくなるんです。

ではずっこける演技を練習してみましょう。するといろんなことが見えます。

ずっこける演技ができる人の歌は信用できる。そこに体幹と脱力、反応と踏ん張りと、それらを使うタイミングとバランスいう全ての表現の基礎…すなわちリズム感があるから。
逆にずっこける演技が下手だと、これらの何かが欠落していることがわかるのです。

わざとらしいさはエンジンのかかってない車?

車に例えればわかりやすいです。基本の体内のリズムというのは、エンジンがアイドリングで、まだ車は走っていない状態。このアイドリングを基本としてアクセルを踏み、ハンドルを切り、ブレーキを踏むのです。しかしエンジンがかかってなかったら…もうおままごとです。

そうなると、セリフも歌も良い声でも高い声が出てもいただけません。車は走って異兄のですから。演技だって動いているようでガソリンも電気も消費、いや人間ですからエネルギーを消費していないわけです。だから怪我をしたり、喉が痛くなったりします。

そもそも良い声で高い声で大きい声で表現がわざとらしい、もしくは無いとなるとそれはモヤは騒音でしか無いですよね。

エンジンの掛け方=リズム感作り方=体の楽器化と圧力の変化

だから通り一遍の正しい呼吸・発声をやっても上手くなる人は本当に限られているのです。それが論理的だろうが根性論だろうが同じです。では何をすべきか、ボールをずっと弾ませるような体にするんです。そしてそのボールのつき方を学ぶんです。ただそれだけ。

やれば誰でもできます。やらないからできない。ボール(胸周り)が凹み、弾ませる場所(体幹で胸と下半身の距離を持つこと)が無ければそもそも始まりません。それらクリアする方法が体の楽器化です。そして簡単なドリブル(肺に圧力をかけたり抜いたりの繰り返し)を覚えます。これは機械的に覚えます。欧米の人はこのリズムに則って普段の身振り手振りをする人が多いく、発音もこのリズム優先で話すようにできています。

その先にやっと実践練習。つまり野球だと投球練習や打撃練習。

そしてついに歌うんですよ。いや、エンジンのかけ方がわかっていれば、いきなり歌っても絶対喉を壊しません。

そこのあなた、エンジンかけてないのに、いきなり発声練習やって、適当に歌って疲れてませんか?

タイトルとURLをコピーしました