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【新年のご挨拶】ボイトレは才能を楽しく育て、自分を作り上げていく「道」

ボイストレーナー浜渦弘志 浜渦メソッドについて

あけましておめでとうございます。

2022年がスタートしました。新型コロナウィルスの影響で、職種や年齢などを問わず、すべての方が未だ大きな影響を受け続けていることだと思います。

本当に大変な思いをしている方、いやこれをチャンスに…受け取り方はそれぞれだと思いますが、この一年が多くの方にとって良いものとなるように願わずにはおられません。

さて年頭にあたり、私のボイトレや表現に対する考え方や、なぜ私は今日もボイストレーナーという仕事を続けているのか、ボイトレとはなんなのか、その原動力はなんなのか考えつつ、つれづれなるままに書かせていただき、新年のご挨拶に代えさせていただきたいと思います。

難しそうなことをいろいろ書きますが、ご安心ください。難しい部分はボイストレーナーの仕事です。みなさんはボイトレは才能を楽しく育て、自分を作り上げる喜びを感じていただき、そして価値観や信条さえも超えて、多くの方と感動や想いを共有していただきたいのです。そんな中で自分の弱さ、強さもわかり、何より自分体のパーツひとつひとつや考え方にに対して興味を持つことができます。

それは自分を好きになっていく「道」でもああると思うのです。

ボイストレーニングは「道」のようなもの

昨年末、ある生徒さんよりとても嬉しいメッセージをいただきました。

「動画を見て復習しつつ、昨年もまた少し体感と理解を積み重ねられた感じがあるなあと振り返ってました。実際、昨年に限らず、その都度「あ、こういうことか」と思うものがありつつ、またそれが別の捉え方に更新されて沁みていくような。そんなこともあって、ボイトレは「道」のイメージを持つようになりました(書道を習っていたときの感覚と近いというか)」

…たしかに道なのかもしれません。自分が上手くなること、でも独りよがりにならず、表現を共有する、そのために体全部のバランスをとりつつ、また膨らませつつ進み、時に迷い、突如目の前から消えたり…切り開いたり…舗装したり…いや、この舗装は誰かにお膳立てされたものではないか?と疑ってみたり…

もちろんこのように考えず、何も考えずにただ楽しく歌ったり、逆に「せめて人並みに声を出したい」とか「他人より高い声を出したい」というような、他人の目を気にすることも、多くの人にある願望でしょう。私はかつて、人の目を気にして気にして、気にしすぎていることに気づかないくらい気にすることが当たり前になって、その結果、綺麗な声、良い声、テクニックや上手く歌うことで誤魔化したくなる。そういう誤魔化しのトレーニングをやっていました。良い子を演じていたのかもしれません。

誤魔化しのトレーニングとトレーナー時代

誤魔化しのトレーニングとは、具体的に言いますと、体を楽器として使ったり、体のバランスや表現の自然さを極限まで突き詰めずに、形だけの鼻腔共鳴や腹式呼吸やミックスボイスやいろんなテクニックに頼ってなんとなくの高い声やそれっぽい響き、上手い気分になる、上手いふりをする…最初はそんな自分に気づいていませんでした。

すでにボイストレーナーとしてのキャリアは始まっていましたが、初期のうちのレッスンは、先ほどの共鳴やミックスボイスや、地声や裏声の練習という、知識があれば誰でも教えられるようなものをまことしやかに、大層に、いい気になって教えていたと思います。(当時の生徒さんごめんなさい!!)

だから特に準備もせず、自分ができなくても正解を言葉できちんと解説できればいい、見本は、表現者としてできていなくても、そこそこそれっぽい声、高い声・低い声が出せれば良い…そんな風に思っていたと思います。幸か不幸か、当時そんな論理的レッスンをするボイストレーナーや声楽講師はほとんどいなかったため、そこそこウケてしまったのです。(時代が進み現在、世の中はこういうレッスンが主流になっています。それは…自分がやっておいてなんですが、よくないことだと思っています。)

でもどこかおかしいと気づき始めました。結局それで実践に活かせる人はよほどカンのいい人だけで、あとは偽物の高い声、大きな声、上手いふり、なんとなく練習している気分、単なる習い事として…そんなものを生徒さんに植え付けているのではないか、自分自身そこに陥っているのではないか?

…気付いた時には、私自身が、元の専門の声楽も、ポップスも、ナレーションも何もかも分からなくなっていました。声の出し方もよくわらなくなった。そんな自分にとうとう嫌気がさしたのです。

そうして人が表現するとは何か、その自然なバランスとは何か、どういう状態が多くの人に伝わる呼吸を生み出すのか…研究と実践が始まりました。

私自身が心から楽しむ、後悔のないボイトレ・レッスンへ

本気の研究が始まりました。

掴めた!と思ったら手放していたり、苦難と発見の喜びの日々が始まりました。できることが多くなればなるほど、以前の誤魔化しはできないというプレッシャーのようなものも、のしかかってきました。論理だけのレッスンは終わり、自分の体と気持ちのバランスを取り続ける日々に倒れそうになりました。できたと思ったら、分からなくなる。あらゆるもののバランスで成り立っている為、スランプになるたびに、その原因を探り、人間や動物が感動し、驚き、呼吸をしてやがて声になるまでのシステムやバランスを追い続けました。もちろん今も追い続けています。

しかし、自分自身が掴めたり掴めなかったりのなかでのレッスンは、生徒さんの気持ちを動かすに至らなかった時も多かったと思います。

自分がそのバランスを掴んで、そのシステムを簡潔にお伝えできて、さらに生徒さんに実現してもらわねば、意味がないのです。

そしてこの歳になってやっと、ほぼ自分の納得のいくレッスンができるようななったように思います。納得のいくレッスンとは、自分が表現者として100パーセント楽しんで、生徒さんにも生徒さんのバランスで、その表現者の体の使い方や声に至るまでのストーリーを掴んで実感していただけるようにすることです。

先生が表現者として楽しめないで、論理の述べたり、また気持ちだけで論理を欠いていてはどうしようもない…これが私のレッスンに対する考え方です。

ミックスボイスだビブラートだと言っていた時代の何十倍も大変ですが、何十倍も充足もします。そして、ミックスやビブラートなどは、表現者として成長する過程で自然に身につくものであって、先に作るものではないともわかりました。先に作るとあとあと大変になることも。

もちろん、それでも生徒さん側が満足できないこともあるはずです。しかし「これ以上のものは僕にはできない、やれるだけやった」という思いがあれば、後悔はしません。

後悔するのだけは嫌ですから・・・。

必要なのは自分のありのままの弱さや下手さを認めて受け入れる強さ

毎日、毎レッスン、体を表現者として準備し、体を使い切ろうとすると、気持ちが折れそうになることもあります。気持ちが折れそうになると、綺麗な声、良い声、テクニックや上手く歌うことで誤魔化したくなる。先ほど申し上げました通り、私はかつて、心が折れるも何も関係なく、ずっとそんな歌を歌っていました。

しかしもう誤魔化しは嫌だ。それなのに、私自身が上手く表現者としての準備ができないままレッスンに突入して焦ってしまうこともありました。そんなレッスンはあっという間に生徒さんに見抜かれます(と思っています)。誤魔化しもないのに、伝える体力もない…調子も悪い。

焦るのは私の弱さです。

いつだって人は「自分のありのままの弱さや下手さを認めて受け入れる強さ」を欲しているのかもしれません。ならば昨日できたことが今日できなくても、今の自分の下手さや調子の悪さを認めて、その中で最大限できる表現者としてのバランスや楽しさをお伝えできたら、それはきっと生徒さんにも役立つのではないか…そんな風に今は思っています。

それでも今でもしょっちゅう焦って生きておりますが^^;

弱さを知ることで表現者としてのスタートラインに立てる

自分の弱さを知り、認め、ありのままを表現できることで、初めて人はスタートラインに立てる。

私の今のボイトレや表現に対する根本はそこにあるのです。うまいふりをするのは嫌なんですよ。それはボイストレーナーとしてもですし、それを生徒さんにさせてしまうことも。

よく考えればスタートを知らずにゴールを味わえるわけがない…もちろんゴールなんかないですが、スタートラインがなければ、進む方向すらわかりません。

うまい人、できる人を演じる…その場は凌げても、わかる人にはバレます。それはとても恥ずかしいし、やがて自分を見失いかねません。

下手でもいいじゃないか、と人は言います。でも下手に歌おうとして下手なのも、上手く歌おうとして下手なのも、不自然であり、自分の本当の下手さ、つまり実力には出会えません。

やはりそんな自分に出会うには体を楽器としてつくりあげ、動物としてのバランスを取ることが必要です。自分へ対する興味が必要になってきます。それが自分を好きになるということかな?とも思っています。

ありのままの下手さは上手く歌うより難しい?

ありのままの下手さを出すというのは、上手く歌う(上手く聞こえる)方法よりもずっと難しいのです。だから多く♪レッスンの現場で、その部分はこれまで、気持ちが足りないとか、練習が足りないと言う言葉でごまかされてきました。

楽器としてバランスがとれてこそ、その楽器の練習の意味がある。しかし私たち人間だけは、自分という楽器のバランス、自分にしかできないバランスを無視して、やれ腹式呼吸だの鼻腔共鳴だの、ミックスボイスだのと、楽器ができる前に、そんな基本練習をやってしまいます。

誤解がないように言いますと、それらの基本はとても大切です。しかし、それらは本来、自分が楽器になり、その扱い方やバランスを知る過程で自然に身についていくものなのです。

果てしのない完成品に近づけていく道

自分の体という未完成な楽器を、果てしのない完成品に近づけていく道は、自分を知る道でもある。扱い方や構造やバランスを知るとは、人とは何かを知ること。具体的に言えば、人が感動したり驚いた時に、体がどのように反応し、開き、踏ん張り、呼吸の圧力が生まれ、息が押し出され、声に至るかということです。

私の知る限り、そこに切り込んだ声楽や演劇、ボイトレは出会ったことがないのです。これらが出来る人は、自分ができていることに気づかないか、なぜできているのかが、なんとなくしか分からない。だから、なんとなくの雲を掴むような話になる。一方できていないトレーナーは論理だけでやってしまう。

だから私は、人が感動し、それを伝えようとする時、どんなふうに人は動くのかを研究しましたのです。歌う前に声であり、声の前に呼吸、呼吸の前にそんな呼吸をした理由、その呼吸をさせた体と精神、神経の反応…そしてその再現。

それを楽器として形にしたのが、ヴァイオリンやピアノやトランペットなどでしょう。もちろん人間という演奏者があってこそで、そこからの道のりは長いですよね。

私たちもまず、その楽器になる。そうして自分という世界にひとつだけの、自分で作り上げた、楽器を演奏するのです。

自分の体…こんな面白い楽器はありません。
五体満足に生まれた私の驕りとして聞いてください。買わずに与えられ、自分で磨くことができる楽器です。

でも、時に楽器自体が、他の楽器では考えられないくらいスランプに陥ったり、逆に神がかったようなテンションを生み出す。

こんな面白いものってあるでしょうか。それを誰かの顔色をみた歌や、せめて人並みの歌をなんてことをやるとたちまち楽器は萎んでしまう。

そんな楽器で練習しても、本当の自分には出会えないのです。

ボイトレは才能を楽しく育てる道

難しそうに書いていますが…これ誰でもできるんです。才能?そんなもの関係ありません♪ボイトレって、自分のちっぽけでも大したことがなくてもよい才能をまず出す、そしてそれを育てていく行為でもあるんですよ♪それができた生徒さんってみんな僕よりあっという間に上手くなる、いい声になる…それはボイストレーナー冥利につきるんです♪

才能を出すのはちょっと苦労します。それが体の楽器化や自然な表現のための呼吸圧や体を使う順序等を知り、実践しつつ、何より大切なそれらすべてのバランスを取ることです。しかし、ご安心ください。その雲をつかむような苦労を皆さんの代わりにするのがボイストレーナという仕事です。だから私は皆さんからお金をいただけていると思っています。

さてみなさんも本当の自分に出会ってください!!ありのままの自分って本当に楽しいですよ。下手でもヘロヘロな声でも。ごまかしのない表現のスタートラインには未来への希望がありますから!

なんかインチキくさい自己啓発本みたいな謳い文句ですが、いや、ここは信じていただいて良いですよ(笑)

正解よりも納得を、価値観を超えた共有を

最後に。なぜひとは体を使って表現するのでしょうか。動物が鳴き声をあげるとき、それは共有・求愛・威嚇といった時でしょう。しかし私たち人間は、人間へ進化したからには、共有が一番にあって欲しいのです。その共有の中で求愛があっても良いし、また威嚇を演じることもできるでしょう。

人はそれぞれの価値観・正義・信念・信条を持って生きています。ある人がそれを正解と思っていても、またある人から見ればそれは不正解に見えるでしょう。

対立はいつの時代もどんな場所でもあります。しかしそこに、共有しようという気持ちと、それを相手に伝える呼吸と声があれば、その対立は敵対ではなく、ライバル関係に、また争いが切磋琢磨へと変化を遂げることができるように思うのです。いえ、いつかはそんな時代にしなければならないと私は思っているのです。

なぜかと言われれば、はっきりとした答えは出ていません。でもすごく嫌いな相手に歌を聞いてもらって「お前は嫌いだけど、お前の歌には感動した」「お前の気持ちは伝わってきた気はする」そんなことを言われると、多くの方はちょっと嬉しくなってしまうのではないでしょうか。

ボイストレーナー 浜渦弘志

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