今日のレッスンは、とても良い時間になりました。
新人の演歌歌手の方との体験レッスン。
きっと、これまでのレッスンでは語られなかった「何か」を、ほんの少しでも持ち帰っていただけたのではないかと思います。
私はこれまで、声楽から演歌、僧侶の読経、声優・俳優・芸人、プレゼン指導まで、あらゆる「声のジャンル」に関わってきました。
でも不思議なことに、それぞれまったく違うように見えても、やっていることの本質は同じなんです。
確かに、ジャンルによって、マイクを使ったり、生声で勝負したり、技術的な特性や文化的背景も異なります。
しかし、一見、全く違うものと感じても、それは「アウトプットの表情が違う」だけのこと。
根っこを辿っていけば、声はすべて同じ土壌から育っています。
私たちは「歌い手」である前に、「鳴き声を発する生き物」。
鳴き声の前には「呼吸」があり、
呼吸の前には「生きている存在」そのものがあります。
“声”とは、生きているということの延長線上にあるもの。
歌とは何か、人とは何か…追求するうちに、
私はそう考えるようになったのです。
(2025/6/10「自分は下手だ、才能がないと嘆く方へ」の項追加しました)
遡ることで、ようやく“声とは一体何か”が見えてくる
現代社会では、何か問題が起きたとき、「一つ前の原因」だけを見て終わる傾向があります。
そしてその原因を叩いて、スッキリして、すぐ忘れてしまう。
でも本当に大切なのは、そのさらに奥にある「遠因」にまで遡ること。
その先に、「どうあるべきか」「何が根本だったのか」という、本質的な問いがあるはずです。
声や歌に関しても同じことが言えます。
ただ喉や腹式をどうこうするだけでは、本当の声には辿り着けない。
遡ることで、ようやく“声の正体”が姿を現す。
声に命が宿る…。
私はそう信じています。
人は声ではなく、呼吸を聞いている
ここで、もう一つ大事なことがあります。
それは、人は声を聴いているのではないということ。
人は、声を通じて「呼吸」を聴いています。
呼吸の中に、その人がどんな存在で、いま何を感じていて、どこに向かおうとしているのか——
それを、無意識に感じ取っているんです。
だからこそ、お客さんは、自分では表現できなくても、
それが“できているか”どうかは、驚くほど正確に感じ取る存在なのです。
これは表現者にとって、ある意味厄介だけど、とてもありがたいことでもあります。
想いを呼吸に託し、そこに声をのせることで、
より鮮明に、より多くの人に、よりわかりやすく伝える。
声は目的ではなく手段なのです。
大きな声、立派な声、高い声は素敵ですが、
本当の声の良さとは、想いのある呼吸に乗っていること。
私はそう信じています。
自分は下手だ、才能がないと嘆く方へ
「まずは“呼吸”から始めよう。歌えなくても、伝わる声はある」
「人は、呼吸に動かされる——才能よりも“納得力”」
ちゃんと歌えるかどうか?…それはずっと後のこと。
楽譜なんて読めなくても、声がかすれていようが、濁っていようが、人が幸せになるような呼吸を探せばいいのです。
自分は歌えない、と嘆くのはそれを試してからでも遅くないはずです。
まずは、歌でなくてもいいんです。
話す声や、ただの一息でも、人に何かを伝えられる呼吸があります。
普段の何気ない会話に、周りの人も真似たくなるような、そんな呼吸を。
すべてはそこから。
人は、目の前の人の呼吸の影響をとても受けるのですよ。
正しいか間違っているか以前の「納得力」というものです。
そこに才能なんて関係ない…あるはずがないのです。
私自身、誤魔化しで芸大へ入り(当時はごっつい声が出たらバスは入れた)、その下手さと音域のなさゆえ(たった1オクターブ)、歌える歌は殆どなかった。
歌が嫌で嫌で仕方なかったのです。
だから私は、本当に上手い人・楽しそうに歌っている人が何をしているのかを研究し、
歌が嫌いなら、歌に愛されようと思ったのです。
それが遡ることでした。
すべては「納得力」の追求から始まったのです。
一番大切なお客さんは、自分自身
もちろん、「お客さんの前で歌わなくてもいい」という人もいます。
でも、そういう人が忘れているかもしれない最も大切なお客さんがいます。
それは、自分の耳です。
自分の声を、自分の呼吸を、自分の在り方を、
本当に“聴いている”耳があるか。
つまり、自分自身こそが最初のお客さんであるということ。
声の根源に遡ることは、自分を知ること。
そして、自分を知ることで初めて、本当の意味で人に伝わる表現が生まれてきます。
もし一人で歌うときでも、どうか、自分の耳を楽しませることを忘れないでくださいね。
歌うとは、生きること
歌は、ジャンルではありません。
技術でもありません。
歌うとは、生きることそのもの。
それは、ただカッコをつけていっているのではありません。
表現は、自分自身の「遠因」に、どこまでも遡ることが必要。
…となれば、それは、生きることそのものではないか、ということなのです。
そしてそこから、身体ごと、心ごと、全存在で響く声を育てていけたら。