上手い人をさらに上手くするのはそう難しいことではありません。
私が大切にしていることは、たとえば、自転車に乗れる人に色んなテクニックを教えるのではなく、
まず、自転車に乗れるようにしてあげること。
乗れるようになれば、あとは自由に走ればいい。
あれこれ言わなくても、今まで乗れなかった分、簡単にできる人より、
きっとやりたいスタイルは頭の中にできているはず。
でもここを教えてくれる人はいなかった…
それが私がボイストレーナーになった大きな理由の一つ。
そして、私がボイトレ・レッスンで大切にしていること。
自転車の基礎って、まずバランスですよね。
歌も同じなんです。
自分という乗り物に乗っていけるか。
そのバランスを取り続けることが表現であり、その上で初めて上手い下手がある。
そして「まあまあ乗れる」ってないんです。乗れるか乗れないか。
乗れてないのに、カッコよく乗れているふりをするようなのは当然本物ではない。
世の中のレッスン・スタイルの変遷に対する、私の意見
昔のレッスンは、乗れなかったら怒る・貶す・時に殴る。
今のレッスンは、乗れないのに、自転車の構造という知識を詰め込み、いろんな機能を持たせたかっこいい自転車を作ろうとする。
やっと乗れても、こう歌えと、セオリーや流行りを押し付けられたとしたら…?
違うんですよ。
自分だけの自転車に自分だけのバランスで乗り、自由に走る。
自分だけの体という楽器を、自分だけのバランスで操り、自分だけの歌を歌う。
それがどれだけ、自然で楽しいことか。
たとえ、隣の誰かより、ずっと下手であっても、高い声が出なくても、自分を自分で操る自由を手に入れた悦びに勝るものなどない。
その隣の上手くてもどこか不自由な人は、意外とその下手でも自由な私たちを羨ましがったりしているものなんです。
それを味わえないまま、劣等感を持ったり、自分には向いてない、なんていうことが、どれほどもったいないことか。
カッコ悪くてもいい。「転びそうで転ばないバランス」の中にしか表現は生まれない
何度も言います。乗れればもう、自由に走っていいんです。
「ここはこう歌うのがセオリーだ」と言われればそう歌ってもいいでしょう。
でも、バランスを崩してまで、楽譜通りに歌うようでは、それはもう音楽ではない。
自転車から転げ落ちてる、ロープから落っこちてる。
楽譜から少々離れてしまっても、変なところで息を吸ってしまっても、高い声が裏返っても、転びそうで転ばないバランスがあれば、表現は成立するんです。
むしろ、その失敗から新しいスタイルやテクニックも生まれるのです。
どんなにフラフラでお、カッコ悪くても、最後まで落ちずに、駆け抜けられれば、生きてゴールにつけば、それは最高の表現なのです。
できるから楽しいのではない。「生きるバランス」を実感するから楽しい
しかし、絶対落ちないように、最初から自転車を降りて、ロープというステージから降りて、自分という楽器を手放して、バランスから逃げて歌った歌が、たとえカラオケで良い点数を取っても、それをもう一度聞きたいと思う人はほとんどいないでしょう。
それなら、もう、その人でなければならない理由もない。
できるから楽しいではなく、生きるバランスを実感するから楽しい。
その実感を、歌で表現する人もいれば、書や絵画で、文章で、仕事や勉強で表現する人もいる。
咄嗟に出てくる自然な反応や、アイデアや、ひらめきは、そういうバランスの中からしかうまれないのですから。
