まずこれだけは皆さんにお伝えしたいことがあります。
「歌や演技や話す才能がない人」なんて、本当はいないということ。
ただ、多くの人が自分の才能に“出会う前”に自分を否定して、諦めてしまうだけ。
自由に自分を出すことより、正しさや”人並み”を重んじてきたこの社会で、
本当のあなただけの表現に出会うことが難しくなっているだけ。
なんとなく、書き始めたら、勢いがついて、ちょっと過激で失礼な言い回しになってしまいましたが、
もしよければ、覗いていってください。
才能にたどり着く努力と、誤魔化しの罠
僕が才能は関係ないっていうのは、自分の才能にたどり着くまでは関係ないってことなの。
たどり着いた才能が大したことがないかも知れないし、すごいかも知れない。
でも才能にたどり着くことなく才能がないとか嘆くのは違うのさ。
そして多くの人は大人になるにつれ、才能にたどり着くより、
正しくやること、きれいにうまくやること、「こけおどし」という見せかけや、
所属意識、地位やお金なんかで、自分の才能にたどり着く努力をしないことの誤魔化しをやるんだよ。
音楽でキレイにうまくってのは悪くないけど、それが目的化しちゃうから、だめになる。
だってキレイとかウマクって比較級だよ。誰々よりとか、時代のセオリーへ対しての。
でも才能って比較でなく絶対感だよ?
比較するなってのは難しいけど、それで才能を閉じ込めておいて、
才能がないも何もないんだよ。
まあ、僕もお金と地位があったら才能の追求なんて今すぐやめそうだけどね😇
才能にたどり着いた人の歌、たどり着かない人の勘違い
でもさ、間違いなく言えるのは、才能にたどり着いたヤツ…っていうか僕の生徒さんはさ、
今のところ100%、震えるような歌を歌うんだよ。
ないと思ってたリズム感や音感が動き出すの。どんなに下手な人でも。いや、むしろ下手な人の方が生まれ変わる。失うものがないから。
で、それが出た瞬間、生徒さん自身びっくりしてるの。
どんなに遠慮がちな生徒さんでも、僕が「今上手く歌えてた思いません?」って聞いたら
「…思います…♪」って照れながら言ってくれるの。
…ほんと、こう言ったら悪いけど、いまの高齢者ってリズム全然取れない人多いんですよ。
あれもウソよ。自分が好きな歌だと、難しくても自由にリズミカルに歌うんだもん。
でも賢く、お勉強としてやってきた音楽の授業のくせが抜けないから、
つまり、正しくリズムを取ろうとするから取れない。
楽譜上の正しさを優先して、自分の体で感じる癖がついていない。
そうやって、才能を封じ込めてしまうわけ。つまり実力とか才能に以前の価値観という頭デッカチが問題な訳。
これは通俗道徳とか、偉い人の言うことは絶対、みたいな価値観が自分を失う原因になてると思うよ。
だってさ、音楽って基本「反応」だから遅れても早く入ってもいいんだよ。
人によって、感じるタイミングも違うでしょう?
遅れたらあとで追いかける、早ければ、少しずつ溜める。
そんな能力は、動物には備わっているのよ。
でもその能力を自ら捨てて、頭でやるから「次の音まで何秒!何拍!」ってのから入っちゃう。
オイオイ、君の数える1秒がそもそも怪しいのに何やってんだよって話。
これは年齢とか才能関係ない。音楽という表現やっていたつもりで、
学問をやってしまっていた。
つまり、本当の自分の表現はやったことないだけ。
しかもさ?学問としては、小学校低学年の算数以下の足し算引き算レベルなのに、
それを必死にアタマを目一杯使ってやるのよ…そんなん誰がやっても才能にたどり着けんよ。
自分で難しくしてしまっているだけ。
いや、日本の音楽教育システムがず〜っとそんなんだったから。
音楽に限らないな。自分で新しい答えを見つけるのが表現だってのに、
こう歌うのが正解ですって。そんなの声の低い子とか、ちょっと変わった声の子だとついていけるわけない。
いや、ついて行く必要なんかないのに、シュンとなっておしまい。
でも日本の教育システムってながらく、そうだったんですよ。
国語でも「作者の気持ちはどれが正解ですか?」「はい、違います」とかね。
いや、それでも適当なものを選ぶ能力は必要なのかもしれないけど…でもさ…。
表現は「自然の摂理」──常識やルールを外した先にあるもの
表現ってのは、その人から、後天的に培った、常識や正解やルールや知識を外したところにあるんだから。
(外したところに素の動物としての人間があるってことね)
だって表現って、常識・ルールを外したところにある「自然の摂理」に辿り着くことで出てくるわけだから。
自然の摂理ったってそんな難しいことじゃない。
たとえば、人が心から感動した声をあげるとき、体はどんな順序で、どんなバランスで動き、その声に至るのかってこと。
これを自分の意思でコントロールしようってのが表現だと思う。
歌や絵というのは、その表現を表に出す手段であって、それ自体は目的ではないはず。
なのに、先に「ここはこの音程で、この歌詞で、この大きさで」があると、あっという間に、その表現は消し飛んでしまう。
本末転倒だよ。
正しく歌うなって言ってるんじゃないよ?
その自然のルールの上に、歌詞や音程などを、できる範囲で乗せていこうっていうはなしなのさ。
つまり、自分の自然な表現>楽譜や台本上の正しさ
これを死守できるかって言う話なんです。
で、常識やルールを外したからと言って支離滅裂になんかならないよ。
いや、ならないように律してこそ人間でしょう?
ルールで相手も自分も縛らないと何もできないなんて不健全でしょう?
そういう人ほどまた、何が真面目でなにがマナーかまでをも決めて(誰か偉い人や多数決で決めてもらって)
制限したがるわけ。なにもできないことへの言い訳のように。
犬や猫だって誰かれ噛み付かないよ。彼らの自然の掟があるわけ。
自然の掟・摂理を無視して、感謝することはいいことだ!とか言ってる人を見ると、
年齢関係なく心の老人だなって思うね。
というわけで、くだらねぇルールに縛られる前に、
自然の掟にしたがって歌う努力をしてみてもいいんじゃない?
死ぬまでにさ。
自由なのに、自然さと人間としての知性のバランスを求める。
それが音楽のあるべき姿だと思う。
こんなこと言うとまた、カッコつけて高尚なことを…みたいに言われたりするわけ。
僕が言っているのは、誰にでもできるちょっと難しいこと。
誰にでもできる簡単なことだと、意味がない。
選ばれた人だけができる難しいこと、なんて表現には関係ない、ってこと。
でも誰にでもできる難しいことって確かに敬遠される。
ダイエットで考えると簡単よね?
誰でもできるけど…。
あとがき:自由とルールの間で苦しんできた私だから見えること
まあ、読み返してみると、本音全開の文章で、
みる人が見たらきついなあ、辛辣だなあと思うかもしれません。
いや、自分で読み返しても、よくわからないところもあります💦
文体が失礼なのはお許しください。
でもこの文章を「辛辣」と感じるのはなぜでしょう?
それは僕自身、まだまだ表現の自然で自由な世界と、
常識とルールにがんじがらめで悩み苦しむマジメ人間を行き来しているからだと思います。
若い頃、ずっとコケオドシの声で誤魔化そうとし、
高い声が出ないのを才能のせいにし、そのくせ他人の批評ばかりし、
その免罪符のように常識やマナーにうるさかった私だからこそ、
ボイストレーナーは天職なのかもしれません。
そんながんじがらめなコンプレックスの塊と、自由・自然・個性という真逆のものを
知っているからこそ、苦しいながらも行き来してきたからこそ、
どんなジャンルのどんな生徒さんがきても、
今なにでどう苦しんで、これからどうすればいいのかが鮮明に見えるのです。
だからこれは学問でもなく、雲を掴むような話でもない。
腑に落ちるレッスンができる。そう思っています。
これは自画自賛?答えはYESです(*´Д`*)ごめんなさい。
でも表現の世界にお連れすることは可能です♪
ぜひ体験レッスンにお越しくださいね。
おまけ。「パントマイム発声法」short動画です。
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この記事では“エッセイ的”に語りましたが、
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『歌唱に才能は関係ない理由と、本当に上達するための2つのポイント』
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