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自分らしく「自然で感動的な歌唱」「意味のある高い声」を目指す人に知ってほしい自然表現のルール

自由に歌う人 上達のアドバイス

ボイストレーナーの浜渦です。歌や演技、話し方が上手くなりたいという方は非常に多いと思います。私も今だにそう思っていますし、その思いは一生変わらないと思います。なぜ上手くなりたいのかと問われますと、私は「感動を多くの方と共有したい」「想いを伝えたい」「生きている証しとして」…もちろん、自己顕示欲もあります!

みなさんも、うまくなるために、一生懸命練習したり、上手く歌う努力をし、時には声楽やボイストレーニングを習ったり、カラオケ教室に行ったり…という方もいらっしゃることでしょう。

しかし「確かに上手くはなったし、ある程度高い声も出るようになった」でも「いまいち自然さを欠いている」「自由に歌っていると言い切れない」という声もたくさん耳に入ってきます。私も再三書いておりますが「上手くはなったが面白くなくなった」「むしろ下手な時代の方が、感動があった」ということは、事実としてよく起こります。

これは私たちボイストレーナーこそ気をつけなければなりません。歌を習い始めた当初は、歌が下手なりに、自由に歌ったり、楽しく歌えていたのに、習うことで下手になってしまう人も実は大勢います。先生の言うことを聴きすぎて自分の表現を失うひとは多いのです。もちろん、その先生は正しいことを言っているだろうし、生徒のために一生懸命であってもです。

一方、しっかり音域も音量も増えたし、カラオケの点数も増えた!…なのに、全然面白くならない「高い声さえ出ればもっと自由に歌えると思っていたのになぜだ?」私自身もそういう経験がありません。とにかく、音域が狭くて高い声が出ずに苦労したのですが、「レッスンでは響きを集めろ」とか「声帯を開くな」とか「それができれば習いにこないよ」ということしか言われないため、自分で研究し尽くし、ミックスボイスなどで高い声が出るようにはなったのですが「出たからなんなの?」と言う高い声で、しゃくりやシャウトなど、それっぽいことをやっても態とらしくなり、うまい振りをしているようで自己嫌悪に陥ったものです。

そこにはなぜ人は高い声を出すのか、どういう時に本来出すのかという根本がなく、ただ高い声が出ないコンプレックスで研究していただけにすぎないという事実があったのです。

そこで今日は、本当に自由に歌うとは何か?自然な歌唱とは何か?ということについて簡単に書かせていただきますね。

自由で自然な歌唱とは

自由に歌うとは一体なんでしょうか。私はこう考えます。

HIRO
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動物としての身体と呼吸のバランスと心地良さ」を決して失わずに、「自分らしい歌を歌うこと」

そこで初めて、その人らしく、個性を失わずに、相手に想いを伝えることができるのではないでしょうか。

動物としてのバランスとは、以下のバランスを保つことです。

感動・驚き>溜め(丹田での踏ん張り)>呼吸>声
人は本来感動した時に、体が太鼓のように開き、その状態を丹田をはじめとした踏ん張りでキープしたまま、息を吐き、最後に声が乗る…という手順を自動的に踏むようになっています。
これはそのまま歌唱表現のみならず、あらゆる表現のルールなのです。誰が決めたルールでもありません。自然の摂理と言ったほうがいいかもしれません。

自然な発声が起こるフローチャート(自然表現のルール)

例えば、だれも解けなかったなぞなぞがついにわかった時…
  1. 「?まてよ?…もしかして…ああ!」→体が開き、喉と接続され体が楽器化する
  2. 「わかった!」という核心に到達した時、1の状態をキープしたまま、丹田に力が入って感動と納得が同居する
  3. 上の状態を外の世界、つまり伝達しようとする時、丹田で踏ん張る力と綱引きするように息を吐く(この時点で横隔膜呼吸しかできなくなる
  4. よりわかりやすく、より多く人へ伝えようと「思わず」声が出る(自然発声)

基本的には以上のような流れになるはずです。

1~3の順序ととバランスを保った上にやっと感動的な自然な声は生まれます。しかし、このルールを守らずに、高い声を出そうとしたり、上手く聞こえさせようとすると、当然体を使えていませんから、喉に負担がかかり、声が枯れたり、息が続かなかったり、高い声が出ない原因となります。また、たとえ高い声が出ても感動がない、上手く歌っていても面白くない…という結果になるのです。(実は、体を使い切らなくても高い声がそれなりに出る方法はあるのです。それは我々トレーナーは本来教えてはいけないことなのですが…)

1~3まで歌手でなく、他の例えばピアノやヴァイオリンなどの楽器でも、書道でも舞踊でも同じです。演技でも同じです。

自然な表現のバランスを守るものに感動的な声や意味のある高い声が与えられる

もしみなさんが、本当に自然で感動的な歌唱や表現力を手に入れたければ、前項のルールを守ってください。しかし、ルールを守ればも守るほど、声までの道のりは長く、楽譜の一つ目の音符までに、つまり声になるまでに、やらなければならないことが多いことに気づくはずです。

しかし、これはやり方さえ覚えれば、誰でもできますし、これが身につくと、高い声も大きな声も体全体のバランスで出すことを覚えます。つまり、意味のある高い声、意味のある大きな声が出せるようになるのです。

「自然表現が」「楽譜上の正解」に負けると一生上手くならない

もし、みなさんが間違えそうになったり、息がが続かなくなりそうになったり、高い声が出ないと思ったり、声が裏返りそうな時でも「自然表現のルールを」守ることができれば、あなたの歌は驚くほど上達するはずです。

そのとき、楽譜通りにはきっと歌えなくなるでしょう。自分の自然な表現を守った結果、楽譜上のリズムから遅れたり、発音が甘くなったり、息が続かなかったり、声が出ないところもあるかもしれません。

HIRO
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しかし!それこそ今の自分の実力なのです。その実力を知ることが大切なのです。そしてそこに感動と個性のタネがぎっしり詰まっています。

自分の実力が分かればどんどん上手くなる

自分の実力が分かれば、歌はどんどん上手くなります。「実力なんてないのはわかってるよ」という人は多いのですが、どれくらいないのかは、自然表現のルールを守ることで初めてわかるのです。絶対譲れないものを守った結果、これくらいしかできなかった…これこそが実力なのです。そしてそれは本当の上達の第一歩なのです。

しかし、多くの人は、自然な表現のバランスを崩してでも、無理やり音程を合わせたり、遅れないようにしたりと、とにかくまずは楽譜通りにやることに腐心してしまいます。その時点でもう自然な歌唱は一生訪れないのです。もちろん、自然な感動や意味のある高い声も訪れません。どんなに発声練習をしても…。これが何年も真面目に練習をしても上手くならない人がいる大きな原因なのです。

楽譜上の正解は、自然界のルールではなく、人間界の正解・ルールと言えるでしょう。そして我々日本人は、そういう音楽教育を受けてきたのです。

校歌の練習では変声期だろうがなんだろうが、正しい音程でとにかく間違えなければOK、という風に。

 

HIRO
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人間としての正解とは、リズムや歌詞、メロディをきちんと守ること。一方、動物としてのバランス(=自然界のルール)とは、前回の「遠近法」で解説させていただいたように、客観性と自己主張の両方を持って「空間を自分のものにすること」とも言えるでしょう。これは動物の根源的な「心地よいバランス」だと考えます。

動物としてのバランス>人間としての正解

さて、歌において、人間としての正解か、動物としてのバランスのどちらを取るか…そんな時、動物としての心地よいバランスを優先していただきたいのです。

動物としての体と呼吸のバランスを優先するということは、楽譜的な発音・音程・リズムの正しさよりも、自分の気持ちを優先するということです。自分の中で「声を出さずにはいられない、歌わずにはいられない」気持ちになるまで声を出さない。また、体を、そんな気持ちになる楽器に作り変えるということです。

乱暴な言い方かもしれませんが、動物としての感動や心地よさを優先して、曲としての正解を一旦失うことを「甘受」していただきたいのです。

…たとえリズムが楽譜上のものより遅れたり、途中で予定外に何回も息を吸ってしまったとしても、またリズムが全体的に崩れようとも、バランスを保つことで高い声を諦めなければならないとしても、、動物としての感動と呼吸を失わないことです。なぜなら…

HIRO
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その「動物としてのバランスを作り、保つこと」は、その人の個性や想い、表現を体と呼吸に宿すという行為そのものだからです。

その動物としての根源的な表現のバランスを保ちつつ、いかに曲に近づいていくか。曲と融合していくか。それが芸術というものではないでしょうか。そしてその努力こそ、本当の練習であり、鍛錬であると思うのです。

しかし、私たちは、幼少期から、自分の感性で感じるタイミングより、時間が来たので行動する。つまり、時間のルールを優先し、自分の表現は二の次という教育を受けてきました。これは日本人の勤勉で素晴らしいところである一方、自分を我慢し、時に殺して、とにかく周りに合わせるというところにも通じるでしょう。

HIRO
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歌はまず目的である自分の表現が最優先です。そこに手段である音楽や歌詞を融合させていくことが大切なのです。これこそ動物から進化した、人間にしかできないことではないでしょうか。

芸術は素晴らしけれど、誰にでもできるもの

芸術と言っても、それは素晴らしいけれども、大したものではありません。何となれば、それは誰にでもできる行為だからです。しかし、多くの方が誰にでもできるということを、忘れてしまっているとも思います。

かの岡本太氏はこう言っています。

芸術なんて、道ばたに転がっている石ころと等価値だ。芸術に憧れたり、芸術が大変なものだと思っているやつに芸術家がいたタメシはない______岡本太郎
私ごときがここまでは言えませんが、大きく頷いてしまうところではあります。

点数をあげるために、また上手く聞こえさせるために、動物としての感動や自然さや自由さを捨ててしまっては、その歌は一体何なのでしょう。目的と手段が逆になってはいないでしょうか。それは芸術からは離れていく行為のようにも思うのです。

結果最優先で自分を失う…偏差値的価値や、他人との競争心は多少満足させることはできるかもしれませんが、それではせっかく人間として生まれてきたのに勿体無いと思うのです。

その価値観の転換ができた時、経験があろうとなかろうと、才能があろうとなかろうと、老若男女を問わず、感動と共有を第一にしながら上達するのだと私は信じています。

私たちは、歌う前に、音楽をやる前に、人間です。人間である前に動物です。進化の過程を考えた時、その自然な進化の過程を無視しないこと。どんなに優れた和声や、また発声法を手に入れたとしても、動物から、人間へ、音楽へ、その過程を捨ててしまってはそこに感動はなく、その人の伝えたいものは薄れてしまうことでしょう。

HIRO
HIRO

歌う前に、音楽をやる前に、人間です。人間である前に、動物であり、そこから進化した人間でなのです。動物から人間への進化。その両方を表現できてこその芸術なのではないでしょうか。

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