ボイストレーナーの浜渦です。
「共有」が素晴らしいのは、その行為自体が、自分自身を高めることに他ならないからだと私は考えています。共有は表現の根幹、いや表現そのものと言って良いでしょう。
芸術家には平和主義者が多いのか?
歌手や役者、画家や映画監督等々…平和主義者が多いように感じますが、決して「ことなかれ主義」でもなければ「ただ仲良くやろう」というわけでもありません。
主義主張の違いや正義観の違いよりも、共有することの優先順位が、そもそも高いのです。なぜなら、共有が表現の根源的なものであり、舞台という場の条件ですらあるからです。まず排除せずにテーブルに着く。「喧嘩はそれから」正々堂々と、相手を傷つけずにぶつかり合おうということです。
だから言葉の壁や宗教の壁を越え、時に国境という壁も超えていく。
では共有とはなんでしょう。なんとなく「共有は素晴らしい」という方もいらっしゃれば「気に入らないと共有したくない!」という方もいらっしゃるでしょう。その通りで、前述の通り、ただ共有するだけではダメなのです。
共有とは自分を失わずに、相手に届けること
共有とは自分を失わずに、自分という存在を突き出して、相手に届け、また受け止めるという、自分を高めなければできない行為だと考えます。いえ、自分を高めなければ、共有など「言葉だけの空々しいもの」になってしまいます。
だからひとは体を鍛え、ブレずに生きる努力が必要です。自分を高めなければならないのです。音楽家や芸術家は、テクニックだけでなく、その生き様自体を問われるのです。
特に歌においては、体が音を鳴らし、感動を表す楽器そのものです。体を広げて圧力を広げた分だけ自分と相手の両者に届ける感動を作ることができます。その感動を「前へ」出してくれるのが呼吸です。
どんなに腹式呼吸ができても体をいっぱいに使わなければ、感動は生み出せません。感動は体の広げ方そのもので作ります(この部分をほとんどの声楽や・ボイトレのレッスンでは教えてくれないのです)。そして息を吐いたり声を出したりすることが相手に届けること。その楽器がブレないことが、自分を失わないということになります。
これを以って共有です。
しかし、それは音楽家や芸術家だけにとどめておいて良いものでしょうか?
共有とは自分を高めること
前述の通り、共有するとは、自分を膨らませ、失わずに相手に届けることは、ブレない自分を作り、体を鍛える行為そのものです。つまり、自分を高めることで相手と共有できるようになるわけです。…自分を高めない言葉だけの共有(平和も)には意味がないのではないでしょうか?いや、その人の理念や考えに意味はあってたとしても、伝わらなければ仕方がないのです。
いまの日本はこの共有が決定的に不足していると思います。自分を犠牲にしての共有や、誰かを犠牲にしての共有は得意です。しかし、それは共有と呼べるでしょうか。
日に日に、自分も相手も傷つけずに生きていくことが難しくなっているように思います。
自分を高めるなどと言いますと「シンドイ」とか「意識高い系」などと揶揄されそうですが、そんなことはありません。いや「意識高い」…結構じゃないですか!
自分が高まっていく実感。こんなに気持ちの良いものはないのです。この気持ち良さには理由はないでしょう。人間のみならず、生き物の生き抜くための根源的な本能なのだと思います。
共有とは、相手を必要とできる度量
共有とは、相手を必要とする度量でもあるとおもいます。
相手を必要とする力と度量は自分がステージに立つ立場なら、またそのリーダーならなおさら、一般社会においても、誰かを指導する立場なら、政治家ならば絶対に必要です。
しかし、いまの世の中、排除の論理で、あらゆるセクションで分断されつつあるようにも思います。
主義主張、正義、宗教は違っていい。むしろ違っていて自然です。
それが一堂のテーブルにつくこと。それが共有。それを可能にするのが、お互いに自分を高めていく行為なのです。
表現の根幹は、あらゆる障壁を超えた共有ではないでしょうか。
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