浜渦メソッドは、浜渦自身がこれまでのレッスンで抱いてきた「疑問の解消」からスタートしました。ほんの15年ほど前までのレッスンでは、「Do」はあっても「How」がないのが普通でした。つまり「もっと響かせて」「もっと息を混ぜて柔らかい声で」という指示はあっても、その方法は具体的には示されず、先生の見本以外はない、といった状態だったのです。
東京芸大卒業と挫折「歌が大嫌いだった」
東京芸大声楽科卒業後、私は歌をやめようと思っていました。いや「卒業さえすれば歌から解放される」そんな思いでいっぱいでした。親にお金を出してもらって行った学校で、なんとも罰当たりな話ではあります。
高い声が全然出ない、歌は下手でどうしようもなかった私
私のひどい歌は、当時の同級生なら覚えているか、逆に綺麗さっぱり忘れられていることでしょう。なにせ、私は、音域が相当低く、低音には困ったことがなくても、高音域はまるっきり出せず、入学時にやっと真ん中の「ド」(mid2C…つまりHi-Cと呼ばれる音の1オクターブ下ですね)、卒業時にやっと真ん中の「レ」が出るという始末でした。
その上の音域となると、力ずくで何かを絞め殺すようないかにも苦しすぎる声を出していたわけです。先ほど、具体例を先生が示してくれなかったと書きましたが、それでもスイスイ高い声を出せる人はたくさんいましたし、どんどんうまくなる人もいました。要するに、私はトンデモなく勘が悪かったわけです。幼少期には兄(現作曲家)とデュエットを組み、何も苦労なく歌っていましたし、基本的にスポーツ以外のことはなんでも卒なくこなしていたのですが、歌・発声、いや、幼少期に得意だったはずの表現だけはどうしてもうまく行かなかったのです。
それでも「東京芸大に入ったじゃないか!」と言われれば、たった1オクターブしかない歌を、こけおどしの声で歌い、つまりゴマカシで入ったわけです。1浪してこの始末。加えて、私の年は、前年に宮本益光さんをはじめ、素晴らしい方がこぞって入学された反動か、入りやすかったということもあります。また、芸大のスター性より音域よりいわゆる「良い声」を重視していた当時の風潮にも助けられました。しかし、そんなラッキーが、そのあとの4年間に通用するはずはありません。
歌の楽しさを忘れていた。そもそも知らなかった
私がまるっきりダメだったのは、精神的な面もとても大きかったのだと思います。先生の期待・親の期待、そして自分自身の期待に応えようと、あれこれ考えすぎて、歌を楽しむことを忘れてしまった。また、歌を自己顕示欲のツールだと思うフシがあった。そして何より「具体的な方法論とその理由と実践方法」が示されないと全く前へ進めなかった性格が災いしていたと思います。
…つまりは私自身に原因があることは重々わかっていたつもりでした。そうして卒業後、もう本当に嫌で嫌で、いや、卒業前から話し声を聞かれるのも嫌な始末。
そもそも、歌は「自分自身が楽しまなければ伝わるはずがない」という、根本的なことを忘れていました。というか、幼少期は歌をまるでそれが当たり前のしごとのように「こなして」いたため、歌うことの楽しさを知らなかったとも言えるのかもしれません。まったく不遜なはなしです。
従来のレッスンへの「疑問」と「怒り」
冒頭で書きましたが、浜渦ボイトレメソッドの原点は、それまでのレッスンで抱いてきた「疑問の解消」にあります。基本は見て盗め、聞いて盗めの世界。たまに示される方法論といっても、スプーンで無理やり舌を押さえたり「遠くの山に向かって歌う気持ちで」といった、抽象的なものが多く、一部のカンの大変優れた生徒以外には通じなかったわけです。
「疑問」…なぜ具体論を示してくれないの?
うまくできない場合、生徒は「自分の努力が足りないと自身を責め」また、先生からは「気持ちが足りない」と叱責を受けたのです。私は当時より「気持ちはみんなある!ただ、その出し方がわからないだけだ」「なぜ息の混ぜ方、柔らかい声に繋がる具体的な方法論は示してくれないのか?」そういう疑問を常に持っていました。しかし、それを問うとなぜか怒られてしまう…それはそんな先生が悪いというより、そういう時代だったのわけで、個人個人を責めてはいけないと思いますし、そういう方々を、感謝しこそすれ、恨んでいるわけでもありません。
料金と内容に対する「怒り」
しかし、当時は若さのためか、具体性を欠くレッスンに怒りのようなものを覚えていました。その上、特に声楽のレッスンは高額で、入試前など、安くしていただいても1レッスン45分で15,000円〜。それが当たり前の世界。
やはり高額のお金を支払って、こき下ろされて、具体的なものは得られない。この世界はどうやら私には向いていない、早く「おさらば」して、違う道を歩もうと思ったのです。
やがて学校へも必要最低限の単位を取るためと、本当に嫌で嫌で仕方なかったレッスンだけを受けるために行っていました。
学校で音楽が嫌いになった人は多い
学校で音楽が嫌になった人はいまだに大変おおいそうです。幼少期に「変わった声している」とか、声が裏返ってバカにされて以来いやになったというひともおおいですが、音楽大学や怖い先生のレッスンで嫌になった人はとても多いのです。
特に音大については、ここでは多くは触れませんが、毎レッスン、叱られ、罵倒され、萎縮し、やめたくても「親の手前やめられなかった」「4年間が奴隷生活のようだった」「楽譜をみるのも嫌になった」という方は大変多いです。私学では4年間で下手したら700~800万円(+楽器代や生活費)がかかるというのに、これでは学校など行かない方が良いという人も増えているのもわかる話です。
この件については、真摯に健全に問題提起を改めてしたいと思います。
さらば「歌」こんにちは「歌」
そして私は卒業の時を迎えます。卒業式には参加せず、卒業式後、証書を渡すというのでそれだけ受け取りに行ったのです。正門から入らず、裏の通用門から…甘えがあったのは重々承知ですが、いかに私が、もう歌だけでなく、声楽という世界自体が嫌いだったかお分かりでしょうか。
さようなら「歌」と「音楽」
そもそも、普通の大学を目指していた私が、思いつきに近い形で芸大を受けたのが問題でした(「ある人」の「ほんの一言」と、さらにその後の「たった5分の話し合い」で芸大受験を決めた)。何から何まで不甲斐ない私でした。17歳の若さゆえとお許しください。
そういうわけで、芸大卒業後は、引っ越しする兄と一緒に住むべく、大学寮を出て目黒へ。近くのレンタカー屋さんで働こうかとしていたある日、実家から「一度帰ってこい」との連絡がありました。
私は歌を辞めるつもりでしたが、なかなか事情が許さず、悩みに悩み、1年間は引きこもりのような生活をおくったのです。
「歌」との出会い
私は歌を辞めるつもりでしたが、最後に好きだったシューマンの「詩人の恋」をやろうと、練習しました。それが周りの協力があって初リサイタル(25歳の時。「詩人の恋」「リーダークライスop.39」の合計28曲。宝塚ベガホールをはじめ5回公演)に繋がります。嫌で仕方なかった歌ですが、自分で思うままに、わからないことも自分で解決しつつ、自由に歌うことを、やっと垣間見たのです。でもこれは序章にすぎません。
本当に歌の楽しさを知ったのは、ボイストレーナーになってからです。それは35歳を過ぎてからです。私が「歌を始めるのは何歳からでも遅くない」というのは、好きになることさえ、この歳でもいいのだから、ということもあるのかもしれません。
ボイストレーナー専業へ
自分が声やレッスンに対する疑問を自分で解決することは、だんだんと自分にとって有意義なことになってしました。特に喉の開け方や強い息の吐き方については「どういうプロセスでやるのが自然なのか」それは「生活の中で人間がどういう反応の時に起こりえるのか」そういう研究を行うようになりました。
一人一人に合わせるのが先生・トレーナーではないか
この頃からもともと好きだった人間観察に拍車がかかったように思います。
こういう呼吸、声の人は、こういう性格の人が多い。そういう人には、こういう言い方、こういう伝え方をするとわかってもらいやすい…等々。
つまり「ひとりひとり性格も体格も考え方も違う。体力も違えば感情も違う。ならば、それに合わせる最適のものを提供してこそのレッスンであり、お金をいただいて良いのではないか?」
そういう風に考えるようになったのです。中には厳しく伝えた方が良い人もおられますが、具体的に冷静に言った方が良い人も多い。引っ込み思案の人には「気持ちを込めろ!」ではなく、どうすれば気持ちを前に出せるか。またそういう風に見えている人は何をやっているのか、そこに至る方法を伝えてあげれば良いのではないか?等々。
本番との狭間で
当時私は、年間80回くらいでしょうか、ステージに立つ機会があり、合唱指導を週に5回(少年少女・女声・男声さまざまなグループ)、個人レッスン、色々なことをさせていただいていましたが、一方で、あらゆるジャンルの声と表現に対する研究とそのレッスンができる「ボイストレーナー」になりたいという思いが強くなっていました。
好きなのにうまくできない人が舞台に立てるように。いままでのレッスンで苦しんできた人を少しでも助けることができたら。その思いは日増しに強まります。
声楽家センセイから一介の「ボイストレーナー」へ
ついに行動を起こす時がきます。これまでの本番や、レッスンを全て辞めました。オールジャンル指導でき、「何を」「なぜ」「どのように」を具体的に提示できるトレーナーになるべく。その時31才目前でした。
その後の茶番のような苦労話(経済苦でほとんど寝ない日々とか、苦悩で1年で15キロくらい痩せたという、どうしようもない話)はまたの機会にさせていただきますが、どうにかこうにか、ボイストレーナー専業となり、口コミで来てくださる、多くの生徒さんのおかげで、勉強を重ね、あらゆるジャンルを指導できるようになったのです。私自身、音域(声域)も声量も飛躍的に伸びたのです。
オールジャンル指導することへは、最初は戸惑い、スランプも繰り返しましたし、誤解されることもありました。しかし、全てのジャンルに通じることは大変多く、そしてそれぞれのジャンルの良いところをフィードバックし合え、そのジャンルが陥りやすい問題をクリアできるなど、大きな私の財産となっています。
その後。さらに「自然な感動」を求めて。ボイトレ界の問題点等
しかし、声はただ高い声が出ればいいわけでも大きな声が、立派な声が偉いわけでもありません。むしろ、その結果だけを追い求めては、人がなぜ歌うのか、感動を人間の自然な反応として生み出し、それを周りの人と共有するという、私の考える表現の大前提から乖離していきます。
さらに、形だけの腹式呼吸や、ミックスボイス・ミドルボイスといった、本来、声表現の基礎ができれば、あとから自動的についてくるものを、さも便利なもののように伝えることは、人間全体から見ればマイナスではないか?
自然な感動と共有、生徒さんの全てを活かすことが個性を発揮すること
人は、なぜ高い声に魅力を感じるのか?では人はどんな時に、本来感動的な高い声を出すのか、またそもそも感動的で共有できる声を出すのか?その自然を再現することこそ、本来の人間の姿を映し出す「芸術」ではないか?
そしてそれこそが、人が人らしく、身体をいっぱいに使って、偏差値社会から離れ、初めて本当の個性を自由に前へ突き出せる行為であると。
全ての基礎はそこにあり、テクニックはさらにその基礎から生まれ出るものであると。
これは伝えられるまでが大変な道のりでした。多くの生徒さんにもご迷惑をおかけしました。これを多くの人間がやれば、きっと世の中は、ひとりひとりが個性を力いっぱいに発揮し、ともに共有し、時には健全に戦わせ、そして力を合わせられる。
芸術が言語や人種を超えて行くというのはこういうことではないかと。
すごく難しそうに書いておりますが、実践することは、歌わずには、表現せずにはいられない呼吸の構築であり、頭で考えなくても反応として、つまり体がもつ本来の性能を活かして、音量、音域、歌唱力、また音に対する反応(ただ正確なだけではない自然な音程感覚や発音、フェイク等)を育てることです。
そして、それは才能など関係なく誰にでも手に入るのです
浜渦メソッドは、感動を再現するために必要な呼吸と体の使い方とバランスを知り実践することで、「誰もが」「才能に関係なく」「感動を生み」「本当の上達を実感」しつつ、「気持ちを込めて」「話すように」「歌う」この3つを「同時に」「具体的に」成立させるメソッドです。
しかも楽しく!ワイワイと。生徒さんと対等な立場で!
ボイストレーニング業界の問題点
最後にボイトレ界の問題点をほんの少しだけ
- ミックスボイスなどの言葉先行
- 本当のうまさより「うまく聞こえる」
- カラオケの点数的・偏差値的うまさ
- 基礎のないテクニックのみ(個性と感動は基礎にあり)
- ボイストレーナーの資格制度のようなもの(方法論は自分で編み出してこそトレーナー)
- 表現の役に立っていない形だけの呼吸法
おかげさまで、根性論や方法論を提示しない見て盗め的なレッスンは減ってきたものの、逆に上記のようなボイストレーニングが幅をきかせてしまったのも事実です。私も15年ほど前はやってしまっていたことなので、大きなことは言えないのですが。
これらがどう問題なのかは、またの機会にしますが、長く第一線で活躍している人、輝かしい高音を出す人、つまり「本物」はミックスボイスや腹式呼吸のことは実はほとんど考えていないということです。
みなさんには、ニセモノの一流なら、むしろ、三流でも、人に感動を伝えることのできる「本物」であって欲しいのです。
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