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「表現しているついでに歌おう」歌詞・メロディ・リズムを引いて残ったものが「あなたの表現」です

楽譜の写真 上達のアドバイス

こんにちはボイストレーナーの浜渦です。ボイストレーニングの生徒さんの発表会LIVEが近づいてきました。いつも生徒さんにお願いしていることがあります。

HIRO
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あなたの歌から、歌詞とメロディとリズムを取っ払って残ったものがあなた自身であって個性であって、表現ですから、歌詞を間違えるなんて、どうってことないんですよ♪

声楽のアマチュアの発表会などにも携わってきましたが、多くの人が、歌詞を間違えたり、ちょっと曲が「迷子」になると、止まってしまったり、やり直そうとしたり、パニックになってしまいます。しかしここに私は異を唱えたいのです。

表現している「ついで」に歌おう

「表現しているついでに歌う」これが私の口癖の一つです。実は私たちは、歌詞やメロディを知らない歌でも思わず口ずさんで一緒に歌っている時があります。

間違わないこと、あっていることが第一になると、歌は死んでしまう

HIRO
HIRO

スーパーでお買い物をしている時に流れてきた楽器の曲に合わせてなんとなく一緒に歌ってみたりすることはありませんか?

鼻歌ってやつですね。気づいたら歌っています

そういえば、鼻歌って良く知らない歌でもなんとなく適当にたのしくうたっているよね(笑)

HIRO
HIRO

そうなんです。それが大切なんです。良く知らないうち、間違えても大丈夫だと思い込んでいるうちは平気で歌えるのに、本番ではそれができなくなる

だって、本番は絶対間違えちゃいけないじゃないですか?

HIRO
HIRO

なぜ「絶対間違えちゃいけない」のでしょうか?いや、もちろん間違えないに越したことはありませんが…

だって本番では間違えたらかっこ悪いじゃないですか?

HIRO
HIRO

中学校の校歌を歌うテストならいざ知らず、せっかくの自由なステージで、間違えないように歌うのが第一なんて、そんなつまらないことはないですよ♪歌が死んでしまいますよ!

そもそも、みなさんはなんのために歌うんですか?

歌うことが好きだから

自分を自由に表現したいから…っていえば先生は満足かな?

 

HIRO
HIRO

その通り!(笑)

優先順位…「表現=目的」>「楽譜=手段」

楽譜を正しく歌うことが目的ならば、悲しいことです。それは答えさえ合っていれば良いという偏差値至上主義の教育の弊害だと思います。あくまで目的は表現すること。その手段として歌があるはずです。

目的=表現>手段=楽譜

そういう先生は本番で間違えたことはあるんですか?

HIRO
HIRO

恥ずかしながら…なんどもあります💦

え〜〜!そんな時どうするんですか?プロだから、間違っていないフリをしてうまくごまかすとか?

HIRO
HIRO

「勢いでひねり出す」んですよ(笑)

そ、そんなアホな…

HIRO
HIRO

本当です。だからこそ「表現しているついでに歌う」んです。もちろん、良く言われる歌詞がわからなくなったら「ア」でも「ラ」でもいいから…というのは…だめです。あれはウソですよ。

ウソ!?良く間違えたら、「ラ」でいいから止まらなければいいって言われますが…

HIRO
HIRO

ウソ、というより、自分の表現ができていれば、歌詞があっていても、間違えても「ア」でも「ラ」でも良いんですよ。逆に、自分の表現ができていなければ、どんなに歌詞があっていてもだめなんです。

実は私がまだクラシックオンリーで歌っていた頃、あるリサイタルのある曲で1番と2番を間違えて順番を逆に歌ったことがあります。それを、本番後に共演したピアニストが笑いながら指摘してくれたのですが

ピアニスト「浜渦さん、あの曲1番と2番ひっくり返ってたね(笑)」

私「?そうだったけ?」

ピアニスト「気づいてなかったの?うまく誤魔化したなあと思って聞いていたのに」

私「全然覚えてない^^;」

そうなんです。必死に体を使って表現していると、もう間違えたことすら気づかないし、たとえ間違えても、何かひねり出てくるんです。間違えてからが「勝負」とも言えます♪

小さな子が聞いたことがある曲に適当に歌詞をつけて歌っているのは誤魔化しているのではなく、自分の表現の順位が歌詞があっていることより上だという、単純な理由です。

しかし、いつしか我々は、物心がついて、成長する過程で、正しいこと、いや「多くの人が正しいと思っていること」をトレースしないと恥ずかしい、かっこ悪い、もっといえば点数が低い、偏差値が低いというような認識になってしまうのです。

しかし、歌において、ただ単に正しく曲をトレースすることが目的になってしまえば、仮にちゃんと歌えたとしても、それは作曲者・作詞者の手柄であって、別に自分が歌う必要がなかったということになります。

大切なのは、あなたでなければならない、あなたにしかできない表現の歌を歌うこと。

本当の感動とうまさは、自分の表現と楽譜の融合にあり…「くずして歌うの意味」

歌というのは、難しい曲が歌えて、高い声が出て、立派な声が出て楽譜があっていれば成立するというものではありません。たとえ、かすれ声でも、しゃがれ声でも人の心を震わせる歌を歌う人はたくさんいます。

本当に上手い人は上手く歌おうとしていない

しかし、本当に歌が上手い人は、上手く歌おうとはしていません。もちろん練習はします。しかし、いかに自分らしい表現をして、そこに楽曲を融合させていくかの努力をしているのです。

多くの方は、自分らしい表現の前に、楽譜をまずきちんと、という風に、楽譜上の正解を優先してしまいがちです。この時点で既に、目的より、手段である楽曲を優先しています。こうなると本当にはもう上手く歌えないのです。いや、上手く歌おうとすればするほど「上手いけど面白くない歌」「上手く歌おうとしている歌」となってしまうのです。

「楽譜を覚えた後に」とか「高い声が出るようになってから」表現を付けようとする行為はほとんど不可能なことであることに気付きましょう。

自分の歌から、歌詞・メロディ・リズムを引いて残ったものがあなたです

自分のうたから、歌詞やメロディ、リズムを引いて残ったもの。それは呼吸であったり、体であったり、感性であったりというものです。もちろん、曲を聞いてそれらが動き出すことも多々あります。

しかし、この歌はこういう風に歌うのがセオリーだとか、こう歌うと上手く聞こえる、というような誰かとの比較のような歌を歌っているのでは、歌う意味が半減します。

自由であること、自分を誇ること、生きている証として歌は歌ってほしいのです。元来そういうものではないでしょうか。

よく、崩して歌っている人がいますが、「崩す」の本当の意味は、自分の呼吸のイメージや、感性を優先した結果、楽曲の方にちょっと遠慮してもらった状態のことなんです。

けっして崩したほうがかっこいいとか、そんな考えではないのですよ。これは日本人の悪い癖なのですが、感性の結果であるはずの崩し方を教わろうとしたり、フェイクの音の羅列を音名で覚えようとしたり…これは本末転倒な行為なのです。それでは崩したではなく、ただ崩れただけです。

私がレッスンでお伝えすること

簡単にいえば、好きな曲だけでなく、どんな曲、どんなセリフでも自由に自分の感性を優先して歌い、話せるようになる、呼吸と体の作り方です。

それができれば「こういう風に歌え」なんてレッスンは余計なお世話だってことがお分かりになるはずです。

本当の表現ができれば、どんな風に歌おうが、皆さんの「自由」なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

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